2010年8月4日

【Indig/Env】生物多様性と先住民族 (12)


『先住民族の10年News』166号(2010年7月10日刊行)に掲載した拙稿を掲載します(若干、字句を手直ししました)。

連載「生物多様性と先住民族」
第12回 ABSの正当性と公平性への懸念

著者: 細川弘明
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 これまでの連載を通じて、
(1)生物多様性条約COP10(名古屋会議)での主要な争点のひとつがABS(生物資源へのアクセスの保障と開発利益の適正な分配)であること; そして、
(2)このABSの考え方それ自体が先住民族の立場からみると相当に問題を多くはらんだものであること
について述べてきた。

 ABSの問題点は多々あるが、特に先住民族の法的・社会的権利が十分に保障されていない国では、次のような点が先住民族にとって典型的なリスクとなる。

  • アクセスが前提となっていること(アクセス拒否権のような概念を先進国側が「拒否」していること;先住民族が拒否しても地元政府が合意すればABS交渉は進むこと)
  • 経済利益の評価算出方法とその適正な配分率についての合意を得るのが相当困難であること(COP10の成否をこの点で判断しようとする人は少なくないだろう。)
  • ABSの運用を評価し、不公正や不適法など問題がある場合にそれを解決したり補償したりする仕組みが確立していないこと
  • そもそも、先住民族にとって何が「利益」であるかという根本問題が考慮されていないこと

 最後の点には、ふたつの側面があり、第1に、アクセスを容認することで何がどの程度失われるかが必ずしも事前に正確に予測できるわけではない、という生物資源開発についてまわる予測困難性(開発する側にとってもバクチであるが、現地サイドでの影響評価もとても難しい)がまずある。

 第2に、先住民族や地域に根ざす小共同体が生物多様性(生態系、生物資源)から従来得てきた利益(生業経済と文化の存続基盤としてのメリット)と、部分的な開発を容認することで分配を受ける経済的報酬という新しい利益を、あたかも交換可能・比較衡量可能とみなす考え方がABS議論の前提となっている。実際、先住民族集団のなかでも、そうした議論の土俵に積極的に乗ろうとする立場の人たちもいるわけであるが、そうではない(両者は交換できない)とする立場の先住民族集団も当然ある。


■先住権認定が開発協定を促進

 ABSという発想が、一見、問題解決のための正当な枠組みのようでありながら、必ずしもそうとは言えないと筆者が考えるのは、そこに先住民族の土地・水域権の保障枠組みの場合と同様の「罠」が潜んでいるのではないかと懸念するからでもある。

 この原稿を書いている最中(2010年7月2日)、オーストラリアで同国の「先住権原法」制定以来最大の面積をあつかった訴訟が先住民族側の勝訴で決着したとのニュースが飛び込んできた。クインズランド州北部のヨーク岬とパプアニューギニアのあいだのトレス海峡の海の所有権が争われた先住権原確認請求事件【註1】である。連邦裁判所のケアンズ支部で9年間にわたり審理されてきた重要なケースで、対象海域は4万4000km2(北海道の面積の半分以上)に及ぶ。しかも海底・水中・砂州・環礁などすべてが包含される、かつてない規模の先住権審判である(原告はトレス海峡諸島民の自治組織であるTSRA【註2】)。

 連邦裁は、先住民族であるトレス海峡諸島民こそがこの海域の伝統的領有権を持つことを認定した。これは、海上・海中・海底および地下を問わずこの海域を利用する事業・産業・開発探査等は今後必ず領有権者の代表組織たるTSRAと交渉しなければならないという意味である。しかし、裁判所がそのような判断を下したのは、原告である先住民族側が「排他的権利」を主張しなかったからであると考えられる。つまり、今回の決定で、非先住民族による漁業操業が排除されるわけではないし、ニューギニア島と豪州をつなぐ天然ガスパイプライン計画が頓挫するわけでもない。利益分配(BS)の交渉のテーブルに先住民族を必ず参加させなさい、ということである(具体的には、原告からの最終意見書を受けて7月末頃に最終判決が下される)。

 実際のところ、トレス海峡諸島民のなかには「排他的領有権」(たとえば、先住民族以外の漁業者の操業を任意に拒絶しうる強い権利)を主張する人たちもいるのだが、それを前面に出して争ったのでは裁判で勝てる見込みがなく、TSRAは最初からBSを落としどころとして交渉を重ねてきた。オーストラリアにおける先住権の法的保障は、現時点でおそらく世界でもっとも先進的かつ精緻な枠組みであるが、それでも先住民族側は基本的には妥協を強いられている。その合意内容が妥当なものであるかどうかは、分配される経済利益の多寡で測定されることになるが、その具体的数字や条件は、個々の開発案件ごとに非公開で調整され、妥結額も公開されるとは限らない。

 誤解のないよう書いておくが、筆者は先住民族が排他的権利としての先住権・土地権・水域権などを絶対獲得すべきであると主張しているのではない。しかし、排他的権利を放棄することによってしか、利益分配の枠組みが妥結しないという現実は、先住民族にとって本来の意味でフェアなものではないだろうと考える。


■合意の主体は誰か?

 以上のような先住権の保障枠組みにおいて見られる「選択の余地の乏しい妥協」とも呼ぶべき構図をふまえて、話を生物多様性条約に戻すと、ABSという枠組みは「妥協の基本枠組み」として相応の現実性をそなえていることは確かであるが、透明性や交渉過程における対等性(特に先住民族側が言語上や法律上のハンデを負っている場合)において多くの懸念が残る。

 生物多様性条約のこれまでのCOPや準備会合で、ABSは先進国と途上国の利害対立の最前線であった。とりわけ際だった争点として、途上国(生物資源提供国)の求めるように「法的拘束力」を導入するのか、それとも先進国(生物資源利用国)側が推し進める国際ガイドラインと国内法措置による運用とで順応的に管理していくのか、という点が注目されがちである。

 しかし、途上国のなかで地理的・政治的に周辺化された存在である先住民族や地域共同体にとって、交渉への参画の機会、事前情報の提供といったことが、どのように保障されるのかが重要である。これらは国際条約交渉のメインストリームからすると、一見些末な枝葉のように思われがちだが、当事者にとっては死活問題である。

 たとえば、個々のABS案件の交渉の前提となるのは「事前の情報にもとづく同意」(PIC)であるが、途上国政府と先住民族諸集団間の関係が必ずしも円滑で平和的でない状況にあっては「同意の主体は誰か?」という問いが深刻なものとなる。

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【註1】Torres Strait Regional Sea Claim 2001

【註2】Torres Strait Regional Authority(オーストラリア連邦の先住権原法で認定された先住民族代表組織のひとつで、トレス海峡諸島および海域の自治と社会福祉、開発規制、環境保全、補助金配分などの実務機関としての性格も強い。)トレス海峡諸島民は、民族的には豪州アボリジニー系・パプア系・オースロネシア系が混合した多様な集団だが、豪州本土のアボリジニーとならんでオーストラリアの先住民族のひとつとしての政治的地位を認められている。


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