2012年7月7日

【Env】『環境教育学 ── 社会的公正と存在の豊かさを求めて』出版記念シンポジウム


シンポジウム
「環境教育をラディカルに問い直す」

2012年7月7日(土曜)13:00-17:50
於:京都精華大学 清風館 C-103教室
主催: 京都精華大学 人文学部 環境教育指導者養成プログラム
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13:00 開始、趣旨説明(井上)  これまでの 環境教育〉 の枠組みを根本から問い直す。4月に法律文化社から刊行された『環境教育学 ── 社会的公正と存在の豊かさを求めて』(井上章一・今村光章 編著)ISBN: 978-4589034083 で展開した諸論考を手がかりに、持続可能な未来社会の実現に貢献できる環境教育にはなにが必要か、環境思想と教育哲学の立場から探る。


第1部 持続可能で公正な社会を求めて 
話し手=井上章一、林美帆、五十嵐有美子、木村裕、細川弘明
コメント=林浩二

第2部 共にいまを生きる豊かさを求めて 
話し手=今村光章、岡部美香、宮崎康子、辻敦子
コメント=田中毎美


話し手9名は上記論集の執筆者、
コメンテータのおふたりは、
環境教育実践と理論のベテランである林浩二さんと
教育哲学・臨床教育学の大先達である田中毎美さん。

なお、第1部の模様について、
当日参加された奥田みのりさんが
『オルタナ』誌に報告記事を書いて
おられますので、ご参照ください。

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【更新記録】
7月12日朝、発言者の敬称記載の不統一を訂正、第2部ディスカッションの細川発言、岡部発言の字句を微修正、あおぞら財団へのリンク追加、奥田みのりさんによるツイッターまとめ(togetter)へのリンク追加。
7月12日夜、『モンサントの不自然な食べもの』京都上映へのリンク変更。
7月13日朝、塩川哲雄さん、安藤聡彦さんのお名前を記載。最後の井上さんのコメントを追加。
7月13日夕、田中毎実さんの配布資料(微修正版)のダウンロード・リンクを設定。
7月14日昼、木村裕さんの配布資料のダウンロード・リンクを設定(PDF版)。木村さんの発言4箇所について、木村さんから提供されたテキストに差し替え(発言趣旨は変わらず、より正確な表現に)。
7月14日昼、田中毎美さんの配布資料リンクWord版をPDF版に差し替え(同一内容)。
8月16日、五十嵐有美子さんのコメント(第1部の(3) )をご本人提供のメモを参考に補充。
8月16日、井上有一さんの総括コメントをご本人提供のメモをもとに補充。
(五十嵐さん、井上さんからはそれぞれ7月18日と17日にメモをいただいていたのですが、対応がひと月も遅れてしまい、ごめんなさい。)
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第1部 13:00-15:05


(1)井上有一(京都精華大): 第1章「環境教育の「底抜き」を図る ── ラディカルであることの意味」について

  • <エコロジカルな社会>の3つの指標 ── 持続可能であること、社会的に公正であること、存在の豊かさが実現されていること。現代の社会の実情は、これらの条件が悉く満たされていない。したがって、ラディカルな変革が必要。
  • 「底抜き」の意味。たこつぼも掘って掘っていくと底が抜ける。となりのたこつぼと繋がる。環境教育、開発教育、平和教育、ジェンダー教育、食育、多文化共生教育、人権教育、などなどが底でつながっていく、という展望。


(2)林美帆(あおぞら財団): 第2章「公害教育 ── 環境教育の原点から未来をつむぐ」について

  • 公害教育が環境教育に変わっていった、というふうに位置づけられることが多いが、公害が実は終わっていない以上、公害教育も終わっていない。
  • スタディツアーという形で「直接体験」してもらうこと、多様なステイクホルダー(被害者、行政、支援者、企業、etc)の話を聞く。話を聞いた人も変わるが、ヒアリングを受けた人も変わる。今後どう関わっていくかを皆が考える機会になる。


(3)五十嵐有美子(京都府立大): 同じく第2章について

  • 公害問題も地球環境問題も、加害 - 被害という同じ社会構造をもつ。日本のこれまでの公害教育の成果は、社会批判的に考え、加害 - 被害の構造に目を向け、主体的に学びとり行動する、そういう人たちを育成するところにあった。公害教育が必要である理由は、まさにそこにある。
  • 公害教育は、かつて「偏向教育」と言われてしまい、さらに「公害は終わった」とされて、「公害教育」から「環境教育」へ、現在では「ESD」(持続可能な開発のための教育)とその名称が上書きされてきた。国も近年は「ESD」を推進している。
  • しかし、テサロニキ宣言にみられる本来の理念、つまり「自然と人間」のつながりだけでなく、「人間と人間」「人間と社会」といったつながりにも目を向けるという点において、ESDと日本の公害教育の理念は共通しており、両者は同じ社会像を目指していると言える。
  • そもそも公害教育は、日本独自の貴重な経験であり、国連などの会議の場で取り決められた「ESD」よりも、日本の歴史的経緯にねざした公害教育を今こそ見直し、その経験から得られたものを活かす必要がある。
  • 環境教育に対して与えるインパクトは、まだ沢山ある。




(4)木村裕(滋賀県立大): 第3章「開発教育研究から学校教育を問い直す ── 環境教育の実践に向けた新たな展望」について
  • 「社会の再生産装置」としての学校教育をラディカルに問い直さないと、社会の変革を射程に入れた環境教育を実践することは難しい。
  • 教師が専門家としての力量を発揮できるようにすることが重要。社会変革への契機に子どもを向かわせるにはどうしたらよいか。
  • 「社会の批判や変革それ自体」を開発教育や環境教育の目的とするのではない。よりよい社会を実現するために、必要に応じた変革を視野に入れて現状分析や将来構想をおこなうことのできる学習者を育てることが重要。
  • 政治的リテラシーを育成することの重要性。系統的なカリキュラム編成が必要。これまでは、ともすればワークショップ形式で単発的、一過性のものに留まった。
  • 学校運営に子どもを参加させることで政治的リテラシーの育成を促す。
  • 社会認識の深化、自己認識の深化、問題解決にむけた行動への参加、という3つの側面で、子どもが身につけるべき「学力」を考える。
  • 「専門家としての教師」とくに方法論を身につける専門性、変革のビジョンを持つこと、加えて教師が力量を発揮するための制度的サポートが重要。



(5)細川弘明(京都精華大): 第4章「ポスト・フクシマ時代の社会的公正への視座」について 

  • 当初企画(3.11以前)では、海外のへの視線の弱さと歴史的視点の欠乏が(日本の)「環境教育」の弱さだった。
  • そういったことを中心に書こうとしていたが、3.11で頭のなかふっとんでしまい、章の構成を一から考えなおした。福島事故が多くの立場の人にとって「敗北」であったこと。環境教育もまた「敗北を抱きしめ」るところから立ち上がるほかない。
  • 環境問題と原発問題の相似性を認識できていなかった従来の環境教育の欠陥。問題の多面性やステイクホルダーの多様性を捨象する傾向。
  • チェルノブイリ事件を水俣事件と結びつけて理解・対処しようとしてこなかった「環境教育」の浅はかさ。これを克服していくことがポスト・フクシマの環境教育の課題。



(6)林浩二(千葉県立中央博物館): 第1部へのコメント

  • なぜ「論」ではなく「学」なのか?
  • 3つの原則(環境持続性、社会的公正、存在の豊かさ) ── TPS(technological, personal, social)という環境教育の枠組みとの関連。自分のやってきた「環境教育」が何であったのかと振り返るよい指標になった。
  • 従来の環境教育にカッコをつけて差別化することは当然、反撥も招く。deep/shallow論争でもこの危うさはあった。
  • 「底抜き」は「協働」とは違うのか。安易に協働ではなく、ぎりぎりまで掘り下げることに意味があるということか?(そうしないと本当の協働はできない?)2つの対比はかなり本質的
  • 開発教育がこの本に含まれていることに、驚いたし、嬉しかった。環境教育と開発教育は、それぞれ学会があり、交流も試みられた(80年代、90年代)が、あまり深まらなかった。とくに環境教育サイドでの開発問題への関心が弱かったように思う。開発教育サイドはどう見ているか。
  • 「リテラシー」の概念を正面から扱ったという意味でも第3章は重要。専門家学者は、すこし専門がちがう分野については何も分かっていなかったりする。それで科学リテラシーがあると言えるのか? そういった状況は30年前と変わらない。
  • 教員への具体的なサポートとして何ができるのか、もう少し論じないといけない。
  • 博物館で何をするか、より、学校に帰ってから/家に帰ってから何をするか、それをサポートするために博物館で何をするか、というふうに考えないといけない。わずか2時間の時間を充実させることも大切だが、その2時間が子どものその後の人生にどう影響するかを追求したい。
  • 環境教育等促進法の改正にあたって、条文のなかに「公害」という言葉が唯一使われていた箇所「過去の公害の経験に学び」が削除されようとしていた。働きかけて最終的には残ったが、ともかく「公害」も「公害地域の再生」もすべて抹殺されようとしていた。
  • 原発事故を「公害」としてとらえる見方は、まだ少ない。公害としての側面を認識することは重要。ただ、便益の対象があまりに広いため、「公害企業」への通常の対応が簡単にとれない。
  • 教育機関としての大学の役割が問われている。社会的変革に何か貢献できるのか? 専門家の再生産機関としての側面はどう機能しているのかいないのか。
  • ビオトープ・自然再生の場の事例。手賀沼への利根川からの導水によって、沼が川になり、水が滞留しなくなり、アオコが減った。しかし水質汚染(急激に増大した住宅地から沼への未処理下水の放流)が解消されたわけではない。外来シジミが手賀沼に侵入。専門家は手をこまねいていた。一方で市民のビオトープ活動にはうるさくケチをつけたりする。そのアンバランスさ。
  • 博物館も大学も、来年うちの組織はあるのか、という現実の問題を抱えている。非正規職員ばかりになりつつある。これまでのほほんとし過ぎていたという反省はある。この現状で、博物館・大学は持続可能な社会への貢献をいかになすべきか。自分たちのやっていることの外からの評価をもっと求めていかないと。


(7)第1部ディスカッション 14:20-15:05

今村:「学」とつけた理由は3つ。1)「理論の理論」が欠けていたので、実践/論/学(メタの論)というレベルを考えていくことが大切。2)従来の環境教育学より守備範囲をぐっと広げたかった。3)鬼頭秀一さんの『環境倫理学』に触発された(よく売れたらしい、ということも含めて)。

木村: 開発教育サイドが環境教育をどう見ているかは、人それぞれ(会場笑)。開発教育が当初から中心テーマに掲げてきた「貧困」「格差」を軸に、それが他の問題とどうつながっているかということについて議論が深まってきた。その過程で環境問題とのつながりも取り上げられてきたが、環境教育の研究蓄積との十分な対話がなされてきたのかについては検討が必要。

木村:「学力」という言葉にかえて「リテラシー」というようになったことの意味を考える必要(eg 算数の学力 → 数学的リテラシー)。身につけた力をどのように使って、問題や社会をどのように読み解き、どのように解決していくのか、どのように変えていくのかという側面への注目。

林美帆: 教員が現場の雰囲気(西淀川の人たちの明るさ、富山の人たちの辛抱強さ、etc)を直接体験してもらうことが重要。コーディネータの役割が大きい。公害教育でも「学ぶことが楽しい」という感覚が重要。公害教育って何が学べるの?という疑問にストレートに応えていかないとファンが増えない。

塩川哲雄さん(大阪府の高校理科教員、地域環境教育、人権教育など担当):教員の「業界」がはたして「社会変革の必要性」に目覚めることはあるのか、という疑問はある。環境教育の現場は「負け続け」なので、もう「敗北」なんて言わんといて欲しい、というのが正直なところ。だが、この本読んで、また勉強したいという気持ち出てきた。内容雑多だなぁとも思ったが、子どもらが目がキラっとすることにつながる雑多さ(ただ雑多ではなく、高め合うことが前提)であれば。

フロア男性(枚方環境ネットワーク会議、環境教育サポート部会): 枚方市のSEMS制度、環境教育啓蒙の活動

井上: 「家庭のこころがけ」に終始させないことが決定的に重要。

・15:05-15:30 休憩

再開、まず、各種アナウンス



第2部 15:40-1750

(8)今村光章(岐阜大): 第5章「詩的に大地に住まうこと」について

  • 環境教育という“負け戦”をたたかうことの教育学的意味はどこにあるのか? 環境教育の3つの限界(本書pp.107-111)知の限界(科学的実証ができる範囲を超えた問題に直面)、操作性の限界(自然を操作しきれない)、教育的制御の限界(自然体験をおぎなえば環境問題が解決するわけではない、知識を増やしても解決しない、合意形成力を鍛えても環境に配慮した行動をする人間になるとは限らない)
  • 環境教育にたずさわりながら、つねにアンビバレントな感情を抱いていた。
  • 森のようちえんのこころみ(pp.113-119)詩的に住まう技法が身につくのは、(手段としての)教育プロジェクトの結果としてではない。



(9)宮崎康子(神戸女学院大)第6章「大人の論理を超える子どもの遊び体験」について

  • 遊び体験の減少が子どもの自己肯定の弱まりにつながっているとの指摘。自然体験学習もこういった観点から推奨されてきた。
  • しかし「自然体験学習」と「遊び」は同じものではない。遊びは徹底した自由、そのこと自体の目的性。遊びと教育を結びつけることは原理的に矛盾。
  • 人間が生きることと不可分の営み、として教育を捉え直せば、遊びとつながる余地がでてくる。
  • 遊びの結果にたまたま教育的効果が生じることはある。教育のなかで子どもが遊びを感じることはある。そのような体験が子どもの生を深いところで変える可能性はある(バタイユの「遊び」論)。
  • 意識が死で限りなく近づくことで、生命の輝き ── 遊びに没頭している子どもに見られる生命の輝きと同質。
  • 「遊び」と労働概念、目的・手段関係に規定された近代的労働観、それに反する「遊び」への規制、労働につながる競争の遊びのみ「良い遊び」として許容。
  • また、近代的「子ども」の観念の成立。子どもにとっての「良い遊び」「悪い遊び」の規定、しかし子どもが没頭するのは原初的な生の輝きにつながる遊び。大人(近代)の論理を超えたところにあるもの。
  • 環境教育は、豊穣な遊びのちからから学ぶところ多いはず。


(10)辻 敦子(奈良女子大): 第7章「「いまを生きること」の豊かさを求めて ── 児童文学『モモ』が語る生命の時間」について

  • 物語と人生(生きること)をあわせて考える。
  • 時間意識を問い直す。過去ー現在ー未来というのとは違う捉え方の可能性。
  • 辻信一(わたしのおじいちゃんと同姓同名!)の『スロー・イズ・ビューティフル』に『モモ』が出てきたので関心をもった。
  • Time is money か Time is life か。「時間泥棒」との闘い。モモは灰色の男たちに追われ、時間の国にたどりついて、時間の秘密を知る。「いま」とは星々から語りかけられることによって生まれるもの。心臓が止まると時間が終わり、過去にさかのぼり、「人生への銀の門」をくぐって、音楽になる。その音楽こそ「星々からの語りかけ」。
  • 自分の人生をゆたかだと感じるとき、私たちは物語をつむいでいる。


(11)岡部美香(京都教育大): 第8章「無為の生み出す豊かさ」について

  • 教育は実践なので、うまくいっているかどうかの評価が必要だが、評価の視点・基準をどうするか。教育哲学という分野が「中立」を旨とすることは、そのような事情。しかし、教育哲学では、ジェンダーとか労働といった題材がほとんど扱われない。
  • 阪神淡路大震災、芸予地震での経験、「揺れたものを落ち着かせる」ようなものを書いてきた。しかし、東日本大震災でそういうことが繰り返せなくなった。「動くこと」だよ、と助言うけた。正解がでない、落ち着かない、そのこと自体を書くことも必要。
  • 「無為」という概念、教育学において欠かせない「発達」概念の批判につながる。資質をとりだして現実かする、というのが「発達」概念。「何になる」のかがはっきりしないと教育にならない、という見方。しかし、そこを問い直さないと公害にも環境にも向き合えない。
  • 樹を見たとき、よい椅子になりそうだ、とかいう見方をせず、ただ樹と向き合うこと。
  • 無為は不安・違和感・落ち着きなさを生むとみられがち。ほかの人たちとともにそこに留まる。自分の視野に入ってこない人と「ともにある」ことはいかに可能か。環境教育から教育や教育学を問い直す可能性。



(12)田中毎実(武庫川女子大): 第2部へのコメント
【★当日の配付資料の微修正版「問題提起」PDF版のダウンロード
  • “負け戦”が続いてくると、どう負けたらよいかが分かってくる。「反オルタナティブ」二者択一の発想をやめる。この本がさまざまなオルタナティブの集合体として構成されることに違和感あり。
  • 教育は「正義」(公正)を伝達することが目的なのか? 教育は社会化であるよりも深いところで人格化。オルタナティブの主体を生み出すことこそ本来の目的。
  • 相手と話が通じなくなる戦術はよくない。相手の言葉を逆手にとって同じ土俵でたたかうほうがよい。オルタナティブの主張によって生じるコミュニケーション障害は深刻。それではだめだということは歴史的に証明されている。
  • ラディカルな選択肢をとれるような主体を生み出すことが肝腎。
  • 「環境の学び」(教育をしなくても人間は環境を学んでいる)のなかで「環境教育学」はどのような位置にあるのか。ユクスキュルの言う「環界被拘束性」と「世界開放性」、人間は後者(学習の余地、存在のしかたの未確定性)。
  • 外からの呼びかけ(教育)も内からの応答も、より大きなちからの一部(西田哲学)。
  • 「存在の豊かさ」という概念は、生きることの肯定に立っている。しかし、教育は根源的に「死」と切り離せない。
  • 近代教育は能動的モダニズム(開発・発達)とかたく結びついている。そのオルタナティブとしての「存在の豊かさ」の意味は分かる。しかし、教育の本来は「死にゆく世代が残される世代へ応答しようとする営み」
  • もうじき死ぬと分かっている子どもに教育をした実践をどう見るか。社会化論からすれば無意味。教える側と学ぶ側の「死に媒介された生の充実」というのが教育の根底。
  • 脳性麻痺の子ども達の算数と理科の授業を参観して感じた。死に逝く世代の祈りこそ教育。
  • 環境教育の実践をどう考えるか。何かを伝達しようとするのか、人間の存在のありようそのものに手を加えようとするのか?
  • 学校教育のひとつの領域なのか、それともひとつの機能なのか。
  • 上記4つの側面は本書で語られる実践にすべて含まれている。道徳教育の実践と似ている。「道徳」の時間をとっておこなわれる教育は、全教科・学校のすべての営みのなかでシャワーのようになされる“道徳”教育にとてもかなわない。では、環境教育も「環境教育」の時間を確保することでは何も達成できないだろう。


(13)第2部ディスカッション

今村: 社会学者・大澤真幸によるチャレンジャー爆発後3分30秒をめぐる論考。宇宙飛行士たちが最後のときをどのように過ごしていたかについて、ネットでの山のような憶測。そこから転じて、「私たちの世界は実は終わっている」まちがいなく死を迎える私たちが残りの時間をどう過ごそうとしている、という大澤の示唆。田中先生の話と結びつけて共感は憶える。

今村: 特定のオルタナティブに限定して提示したいわけではない。本書がどこに向かって語っているのか、という田中の問いに対しては「主流に対して」と応えたい。私たちなりのずらし方を試みている。環境問題だけを解決する教育はない。ケナフ植えれば解決、節電で解決、という方向に走りがちな現状への疑問。

岡部: 戦後教育学は「子どもを戦争に駆り立てた教育」への反省から、強く「反国家」「個の自由」に傾いた。しかし、経済成長の矛盾が出てきたとき、国家と個人がそんなに行動原理が違うか(個の自由で問題がすべて解消するわけでもない)という視点も出てきた。

今村: 第2の戦後が来るのか、教育関係者にそういう発想(環境敗戦のあと、ということ)はあるのか?

宮崎: この本を高校の先生たちに送って、多くうけた2つの反応は「分かんない」と「読んで悲しくなった」。子ども達を元気にしなくちゃ教育じゃない、という現場の感覚「じゃぁ、どうしろって言うのだ」(研究者は「天の声」を与えることが求められている)。しかし、先生がたが悲しくなっても子どもらもそうであるとは限らない。不登校の相談に対して、「行かなくてもいいんじゃないですか」「いま学校に行かないことがその子に必要なこと」というふうに言えば、教師としては悲しく感じるだろう。教師も枠にとらわれている。

細川: 田中先生のコメントには、虚を突かれた面はあるが違和感は無い。オルタナティブにもいろいろな次元があり、原発をどうするかという次元よりも、原発についてなぜこういうことを考えてこなかったかということの意識を高める次元でのオルタナティブが重要。教育の根底に「死」を意識すべきとの指摘も、同感。

田中: 臨床教育学の立場からすれば、現場の実践の否定だけだと言葉が途絶える。

堀孝弘さん(NGO「環境市民」事務局長): スウェーデンでは「環境教育」の時間は無い。すべての教科で、環境・平和・人権を扱うべし、ということになっている。負け続けというが、まだやり尽くした上での敗北には至っていない。

安藤聡彦さん(埼玉大・教育学部;社会教育、環境教育): 埼玉から来た。本書で「環境教育には覚悟が必要」と書いてあったのが印象的。人間形成学と環境学のつながりを示してくれている。で、田中先生から「甘いよ」と言われそうだが、未熟ですが頑張りますと言いたい。第1部と第2部のつながりが分かりにくい。それを明確にしないと「環境教育学」の全貌がつかめない。環境教育人間学であることは分かるのだが。

田中: 福沢諭吉は「封建主義は親の仇」と言ったが、僕の親の仇は「技術合理性の支配」と「官僚制の蔓延」。同じようなことを考えている若い人がいることを知って嬉しい。



(14)井上有一: 総括コメント


  • 「オルタナティブ」ということが議論の焦点になったので、それに関連して、『環境教育学』の編者としての考えを述べておきたい。
  • 田中先生からいただいたコメントには、たいへん強い共感を覚える。とりわけ、「私たちは、オルタナティブのいずれかに向けて教育することにとどまることはできない。むしろ、オルタナティブに直面して判断し選択する主体こそが生み出されなくてはならないのである。」というくだり(配付資料2頁)は、まったくもってそのとおりであって、このように表現すればよいのだと思った。
  • この場合の「オルタナティブ」とは、かなり具体的かつ固定的なものが想定されているのであろう。二者択一しか許されないなかのひとつの選択肢、という意味である。これは、まさにこれまでの主流の<環境教育>を是とするのではない、私たちが『環境教育学』で取り上げた意味での“強い政治性”をもつ教育観だと思う。
  • 田中先生は、また、つぎのようなご指摘も下さった。「教育は、ラディカルな変革そのものを生み出すのではなく、場合によってはラディカルな変革をも担う事のできる主体を生み出す仕事である。さらに正確に言えば、ラディカルな変革を選択肢の一つとして選択することができる主体を生み出す仕事である。」(配付資料2頁) ── 田中先生は「反オルタナティブ」と言われるが、この考え方は実はすごく「オルタナティブ」だと思う。これも、まさに本書『環境教育学』を編むにあたって、私たち執筆者が広く共有した考え方であった。
  • すなわち、こうした考え方そのものを「オルタナティブ」として、私たちは提示したいと願っていたのだと思う。この場合の「オルタナティブ」は固定的なものではまったくなく、今日の強大にすぎるメインストリームの環境教育観やその具体的な取り組みに代わりうるものを、自由で闊達なやり取りのなかで生み出していきたいと考えているのだといえる。多様性が前提としてあり、いまは「とんでもない」と一蹴されるような選択肢も含めて考えてみる必要があるのだと思う。
  •  さらに、ひとつ、付け加えておきたいことがある。『環境教育学』という著作は一定のイデオロギーにもとづくものであるのかどうか、という問いへの回答である。編者としての考えでは、この本の基底にあるものがイデオロギーであることは明白。『環境教育学』を作る際には、社会民主主義的な価値をかなり意識していた。
  •  第1部のやり取りで言及されたが、2002年に京都精華大学で開催した環境教育シンポジウム(記録PDFファイル ☞  こちら  )で詳しくとりあげた『環境のための教育』で、著者 John Fienは、「イデオロギー:教育における志向性」として、3つの流れを引いて教育とイデオロギーの関係を論じている。それは、職業/新古典主義、自由/進歩主義、社会批判主義の3つである。今回の本は、イデオロギー面で無色透明ということではまったくなく、この分類で言えば3つ目の社会批判主義的な志向を前面に打ち出したものと考えている。
  •  ついでながら、ここで「職業/新古典主義的志向」と呼ばれているものは、権威主義的な教育であって、『環境教育学』のなかで <環境教育>  と括弧をつけて批判されている取り組みのいくつかがそれに該当する(学習者自身がみずから考えて判断していくという機会をあまり与えないで固定的な指示を与えることに終始するなど)。
  • また、「自由/進歩主義」であるが、(以前に今村さんたちといっしょにカナダで活躍する環境教育学者 Bob Jickling の議論を検討したときに気のついたことであるが)、これはこの立場自体がひとつの政治的な立場であるとともに、さらにこの主張の底部には、民主主義的な価値観が前提としておかれていると思われる(イデオロギーの自由な選択が被教育者に委ねられるているのではなくて)。たとえば、この立場は全体主義や強い国家主義の思想と相容れるものではない。
  •  もうひとつ、安藤先生からは重要なコメントをいくつかいただき、ひとつひとつ、そのとおりであると思った。深く感謝している。そのなかに、第1部と第2部とをきちんとつないでおかなければ、「環境教育学」の姿がつかめないのではないかというご指摘があった。第1部と第2部とが有機的につながっていないというご指摘はそのとおりであると思う。それぞれが主題とした社会的公正と存在の豊かさは、断ちがたい関係でつながるものと考えるが、本書『環境教育学』において、言葉を尽くしてその連環を明確に示しえたとは言えず、また各章の記述にその関係がみえるように書き込むまでには至っていない。つぎの課題としたい。
  •  なお、『環境教育学』という書名についてであるが、本書の内容やアプローチだけが「環境教育学」の名にふさわしいという傲慢な考えをもっているわけではまったくない。むしろその逆で、いまだ「学」としては至らないと考えることが膨大に残っている。ただ、批判的に環境教育を「学」として扱う試みが必要であるとは思っている。
  • 本書の第1部、第2部は、それぞれ社会と存在をテーマとした章で構成されているが、これは、本書がエコロジカルな未来に向かう3つの課題(環境持続性、社会的公正、存在の豊かさ)という見方に依拠したことと、これら2つのテーマが2人の編者のそれぞれの関心に合致するということがあったからにすぎない。環境教育学がこれら2つの下位領域で構成されると主張するつもりもまったくない。
  • 「持続可能な社会」という概念は、上記3つの課題とは違ったかたちで捉えることもできるし、同じように、環境教育学は本書とはまったく違った領域の研究によって構成されうるものでもあろう。これから先のさまざまな展開をおおいに期待したい。



17:50 終了

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