2015年7月20日

内田樹の「人文学概論」
        @京都精華大学 2015年7月20日 


 京都精華大学人文学部の客員教授でもある内田樹さん(思想家、武道家、神戸女学院大学名誉教授)の講義をノートテイクしました。


 当日、会場からのツイート連投をすでに公開していますが、その後、内田先生に何ヶ所か言葉を補っていただきました。また、段落の区切りを整えなおし、数カ所、細川の誤記を訂正しましたので、以下、あらためて掲載します。人文学の思索と身体性について、深い示唆を与えてくれるお話でした。

 あくまで細川のアンテナを通して整理したメモです。いくつか大事なところが漏れ落ちてしまっているかもしれませんが、お赦しください。(文責:細川弘明

 ※7月20日(月曜祝日、全学キャンパスの授業公開日)、人文学部1年生むけ必修科目「人文学概論」を公開するということで、見学者も60人くらい、階段教室の後方に来ておられます。卒業生の姿もちらほら見かけます。
 4時間目(14:40-16:10)京都精華大学・明窓館201番教室にて

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 内田さん登壇。4月から客員教授で、お給料ふりこんでいただいてますが、今日が初仕事です(笑)。白井聡さんを採用するなど、この大学の人文学部は「攻めの人事」をしてるなぁと思います。1年生には「攻め」ったって何のことか分からないかもしれませんが。

 人文学部は定員割れなど、苦労されてる。この大学だけじゃなくて、日本中そうだし、世界的傾向でもある。韓国の大学を毎年訪問してるが、そこでも韓国の歴史・文学について学ぶ学部の人気が急に落ちている、若者が「実学」(ITとか)に殺到している、という話をきく。

 韓国の先生たちが心配しているのは、韓国の歴史も文化も言葉も知らず、関心も敬意ももたない人がビジネスをやって、社会や共同体をつくっていけるのか、彼らに国の支配をまかせてよいのか、ということ。同胞を助ける、助け合うという価値観を支配者がもたないような国になってしまうのではないか、と。

 今の話はおととし行ったときに聞いた話。去年行って講演したときは、セウォル号沈没事故のことについて聴衆(教員)から意見表明があった。韓国では目上の言うことをきく、上位者の命令をきく、という教育訓練ばかりしてきて、状況を自分で判断して対応するという教育がまったく欠けてた、と。「上位者の指示について『これはおかしい』と疑う能力を学校教育が壊して来たのではないか」と悔いておられました。

 セウォル号の高校生たちは「大丈夫だから待て」というアナウンスに従って大勢死んでしまった。しかし、僕が思うに、「おかしいんじゃないか」と思った高校生も実はいた筈ではないか。船かたむいてるし、水はいってきてるし、船員にげてるみたいだし。

 危機的状況で、自分の判断で「上位者からの指令」をキャンセルする能力を学校で育ててこなかった。さきほどの韓国の先生は、そういう話を涙ながらにされまして、そのお気持ちは僕もよくわかる。

 お金を儲けるとか、そういうことより、生きのびるということが、もっと大切。そのために一番必要な能力は「ウソを見抜くこと」。この能力は女の子のほうがすぐれている。

 私の友人の高橋源一郎さんが、ひとがウソをついているかどうか見抜けると言ってた。右斜め上を見るか、左斜め上を見るか、目のやり場でわかるんだそうです。右か左かは、ひとによって違う。

 僕は考えながら話すので、目が上にむくことが多い。武道家の甲野善紀先生は、下をむいて、腹に照らして、具合がよいかどうかを判断してから答える方でして、言葉がでるまで時間がかかるが、そうやって言うことを吟味していた。

 世の中ウソ言う人ばかり。「こうしなさい」「これが正しい」「これが決まりだ」云々。人文学とはウソを見抜くことに尽きる。身体はウソを言わない。自分の言葉に体が同意しないとき、声がうわずったり、目が動いたり、微細なことだけど体がついていかない。

 体がのっている言葉とそうでない言葉がある。学生のあいだは人の話を聞く立場であることが多いが、真偽を判定する知的能力が無いうちに、真偽を判定しないといけないので、かなり危険。自分が知らないことについて真偽を判定するのが、たとえばメディアリテラシー。

 知らないことについて判定するということが出来ないと、学びの場に立てない。一番大事なことは、そこなんですよ。知識がないにも関わらず、学部を選んだりテーマを選んだりしている。なんらかの判断をしている筈。生物的直感をとぎすますことが一番大事。

 ゼミを選ぶ学生の面接を長年してきた。その経験でよくわかるのは、「これこれを学びたい、これこれをテーマにしたい」と理路整然と話す人はだいたいダメ。特に興味はないんだけど、友達にさそわれて一緒に来たりする子が、かえってゼミでよく勉強したりする。何でそうなるか。

 なに勉強したい、と聞いても、わかりません、あるいは漠然と「中国近代史」とかいうことしか言えない。こういう子は、自分がなんでそれに興味があるのか分からない。こういう子はよく勉強する。勉強しないと分からないことだから。

 タレントのオーディションなんかであるじゃないですか。友達が勝手に応募写真送っちゃった、その友達は落ちたけど自分は通った。あれ、どうも作り話ではなくて、そういうことが実際にある。何で自分はここにいるんだろう、ということが分からず、まわりの人に聞いたり。

 何で自分が採用されたのか分からないと、不安でいろいろ周りに聞いたりする。「なぜ私はここにいるのか」という問いがすごく大事。そういう問いを発しない人は騙されやすい。たえずセンサーを働かせて答えを求めないといけない。少しずつ答えを探す、その感覚が大事なんです。

 人文科学の人気が無いのは、何やってるか分かんないから。何の役に立つのか、年収どんくらいになるか、全然分からない。ぼくはフランス哲学のレヴィナスの研究をずっとやってきて、論文書いたり、本出したりしたけど、いまだになぜレヴィナスをやってるのかと問われると、今でも絶句する。指導教官は、レヴィナスをやりたいと言うと「やめときなさい」「誰も知らない人の研究をしても評価されないよ」と仰った。たしかに当時、誰もレヴィナスの研究なんかしてなかった。

 しかし、レヴィナスの勉強をしていると理由はわからないが、とても幸せ。評価されるためにテーマを選ぶのではなく、それをやりたくて仕方ないから。20代からずっとレヴィナス読んでると、もう体も価値観もそうなってる。もうひとり、20代からずっと影響うけてきたのは大瀧詠一さん。ラジオで聞いてから、あ、これはすごい、この人についていきたい、と思ってずっと聞いてる。

 同じものを徹底的に知るには、自分の能力を最大限に発揮し、さらに自分を変えていかないとならない。「わかった」というのはだめ。人に対して「もう分かった」というのは極めて攻撃的なメッセージ。男女関係でもそうですよね。「君のことはもう分かった」なんて言ったら、もうおしまいでしょ。

 でも「もっと分かりたい」というのはあるし、愛の基本。「わからない」「わかりたい」という中間状態をずっと維持することが難しいけれど大事なんです。

 「問題」というのは時間をかければ解答に出会えそうなものだけ。簡単にわかるものは「問題」じゃないし、まったく答えのないのも「問題」として成り立たない。「わかる」と「わからない」の中間にこそ、答えを求める営みがある。人文学は、かなり行動的で、パフォーマティブなもの。知性が活動しないといけない。哲学って、一言でいうと「知性をいかに起動するか」。「答えがみつかりそうな気がする」という直感が大切なんです。

 知性をはたらかせるとき人間はよろこびを覚える。根源的に思考する。思考する自分そのものを再帰的に思考する。何で自分はこれに興味を持つのか、どう捉えようとしているのか。自分の思考回路そのものを主題化するわけだから、わかりにくい。でも、これが知性の根源。

 知性が起動する仕組みがわかっていないと、知識を使って何かをすることなんてできない。情報が伝わってきたとき、自分が知らないことだと、それが本当なのかどうか判定するのは難しいけれど、判定しないといけない。大学は情報を身につけるところではなく、知性の働かせ方を学ぶところ。

 食べるものや好みが違うように、人によって取り込むもの、それで成長していけるものは違う。となりの人のとは違う。真似していいのは18歳くらいまで。自分が本当に食べたいものを見つける、あふれる情報のなかから選択する。難しいですよね。消化できないものを食べておなかこわしたり、顎こわしたりもしますからね。誰も食べていないものを「これは食えるぞ」と発見するのが大学での知性。

 食文化には2つある。基本は「飢えない」こと。食べられるように加工したり、みんなが食えないと思っているのを食べられるということを発見する。そういう人が生き延びる。みんなと同じものしか食べられない人は滅びるリスクが高い。

 調味料って、世界の食文化を見ると発酵したものが多い。知らない人には腐っているように思えるものでも、ちゃんと食べられるというのが食文化。知性も食文化と同じ。食べられないと思ったものを、調理や加工や調味で食べられるようにする。誰も食べられないと思っていたものを実は食べられると発見するのは人類への貢献。人文学はそういうもの。

 先人たちの苦しみを知ることは必要。でもそれは自分が新しいものを見いだすためにこそ必要。まわりの人から、それ食えないぜ、腐ってるぜ、と言われるリスクはある。「まぁ好きにやってなさい」と言われたら、しめたもの。

 僕はスティーブ・ジョブズとはちょっと縁があるんです。大学卒業後、友人の翻訳会社で仕事もらったのが、ジョブズとウォズニアックの論文。IBMの中央集権型のコンピュータシステムに対抗して、ネットワークで個人が繋がる「パーソナル・コンピュータ」というアイディアを出したところがすごいなぁと思って、この人には成功して欲しいと思った。まだアップルで成功する前の話。

 スタンフォード大でジョブズがした講演は素晴らしかった。「後になってみないと分からないこと」について語っていた。彼は大学を1年でやめちゃったけど、大学にいるあいだ、calligraphy(西洋書道)を1年習った。のちにマッキントシュを開発するとき、フォントを選べる機能、字間を調節する機能(カーニング)、美しい字をパソコンで表現できるのを「標準装備」にするという発想で革命おこした。

 大学でなぜカリグラフィーを習ったのか、やってるときはなぜ自分がそんなことをしているのか分からなかった。後になって初めてわかる。あ、ちょっとトイレ行かせてください(笑)。中座
 ── (戻って)何をいうか一瞬忘れちゃったんですよ、そしたら便意をもよおして(笑)。

 ジョブズの講演の話でした。彼が言ったのは「心と直感に従う勇気をもつことが一番大事」と。これは深い言葉。自分の心と直感についていくには、勇気がいる。みんなやめろ、という。必ず妨害される。「なぜか」とジョブズは続けます。「あなたの心と直感は、なぜかはわからないが(somehow)、あなたが何になりたがっているかを知っているからだ」と。

 さすがに苦労した人の言葉は違うなと思いますね。計画性をもて、何年先のことまで考えて、と助言する人が多い。でも、そうではない。何歩か進んで振り返って初めて分かることがある。

 食文化でいうと、文化の違う人から「あんなものを食べて」と指さされるのは悲しむべきことではない。異文化への不寛容であるとしても、人類全体が飢餓で滅びることを防ぐという貢献。

 ひとりがあることをすることで歴史が変わる、または、ひとりがやるべきことを怠ることで歴史が変わる、ということがある。そのことは自覚しないと。教師の役割は、君たちが「やるぞ、学ぶぞ」という気にさせること、そのきっかけをつくること、それだけが役割。ひとりひとりの知性が何をきっかけに、どのように発動するかは、予測不能。だから異なるタイプの教師がいる意味がある。

 極真空手の達人と話して、内田先生の話はここに入るからいい、と胸をさすので、どこですか?と聞くと「大胸筋に入ります」と(笑)。人の話が自分の体にどのように入っているかをモニターすること、できるちからをつけることが大事。

 あんまり集中して聞くのもよくない。不思議なもので、不注意に聞いた話のほうが身に沁みる、ということがある。知性が活性化するのは、喉に小骨がささったとき。うまく飲み込めない。うまく理解できない。なんとなく半分くらいは分かる、というのがよい。

 分かりにくい話で、ごめんなさい。せっかくこの大学の教師になりましたので、また君たちとお目にかかって話ができるのを楽しみにしてます。(拍手)


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以上、京都精華大学「人文学概論」での内田樹さん(客員教授)のお話でした。

科目担当者のウスビ・サコ人文学部長がコメント的質問: 私(西アフリカ出身)、日本に来てショックだったのは、日本人のウソの付き方がよくわからない。国際的に大丈夫なのかな、と心配も。

内田さん: ウソは文化的なので、ほかの文化圏の真実とウソの見極めは難しい。身体感覚、今まで見たことのない身体反応にだまされる、という経験を何回かつむ必要ある。僕もフランス人で付き合いやすいのは、日本的な恥じらいとか、照れとかの身体反応が読み取れるタイプの人。

サコさん: 日本で、「いやこれは日本ではダメなんですよ、日本ではそうではないんですよ」とよく言い聞かされるんですが、そういうこと言う人は本当に日本文化がわかってないんじゃないか、とも思う。

内田さん: レヴィナスというユダヤ人の哲学者のことを勉強すると、なんで日本人の僕がユダヤ人の思想に興味を持つのかという問いがあり、日本人はユダヤ人の学術や文化に興味もつのに、ユダヤ人はあまり日本に興味もたないのは何故か、という歴史的な問いの流れに位置づけられることに。40年やってきて分かったのは、自分の個人的な関心だけなのではなく、日本人の一神教コンプレックスという思想史的なこととつながっている、ということがやっと見えてきた。

サコさん: 人間は知り尽くされていないし、知ろうとする問いが意味をもつ。人間って何、というのを大学で勉強する意味があるの、と問われることがあるが、私たちは「ある」と答え、精華大でも「人文学」をやめずに続けるつもり。

内田さん: 何年か前に京大で講演したとき、経済学部だかの人に「大学に文学部なんかある必要があるのか」と問われた。経済学は実学というが、資本とか貨幣とか市場とか欲望とか、経済学のベーシックな概念はみな幻想ではないか。僕らはそれらが幻想だとわかってやっているから、君たち(経済学者)よりはだいぶ正気だよ、と応じた。彼らの研究は非常にローカルな条件設定のなかだけで成立するものを扱っている。人文学はそれに対して、美とか、善悪とか、人類のあらゆる時代・空間に通じることを扱うという意味がある。(チャイム♫♪)お時間となりました。(拍手)